2022
10.24

車いすラグビー元日本代表 三阪洋行さん

セカンドゲーム ―パラアスリートの競技その後―

「セカンドゲーム ―パラアスリートの競技その後」の第三回は、車いすラグビー元日本代表で現役引退後は日本代表のアシスタントコーチを務めた三阪洋行さんをお招きして、現役時代の働き方から引退、現在に至るキャリア形成についてお話しを伺ってまいります。
若い世代の現役パラアスリートやこれからパラリンピック出場を目指そうという人たちのヒントにしていただければと願っています。

 
写真:𠮷村もと

初瀬

はじめに三阪洋行さんについてご紹介しておきます。
三阪さんはラグビーの強豪、布施工業高校 (現在は布施工科高校)3年生の時に頚髄を損傷し車いす生活になりました。入院中に車いすラグビーと出合い2002年にニュージーランドへラグビー留学に行ったことが人生の転機となりました。その後、日本代表として2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンのパラリンピック3大会に連続出場を果たし、引退後は日本代表のアシスタントコーチとして2016年リオデジャネイロパラリンピックで日本初となる銅メダル獲得に貢献されました。
仕事面ではいろいろな経験をされてきておりますが2011年にバークレイズ証券に入社。その後、企業に所属しながら一般社団法人D-beyondを立ち上げ代表理事として活躍されています。

今回は人生のターニングポイントとなった出来事を振り返っていただきながら、現在の活動に至る背景やキャリア形成についてのお考えを伺ってまいります。

―ラグビーの街で育つ―

三阪

僕が生まれ育った東大阪市は、全国高校ラグビー大会が行われる花園ラグビー場があることから、小学生の頃は公園でラグビーをしていたくらいラグビーは身近なスポーツでした。
とはいえ当時はスラムダンクが人気だったので、中学に入ったらバスケ部に入るのもいいかなと思っていたところ、怖い先輩たちに囲まれて「おまえ三阪やろ、中学に入ったらラグビー部に入れ」と勧誘されてラグビー部に入ることになりました。

初瀬

公園でラグビーですか、高校ラグビーの聖地という地域性を感じますね。その先輩たちの勧誘がなければ今の三阪さんはなかったかもしれません。愛情いっぱいの先輩たちに囲まれて・・・その方たちのおかげですね。
ところで小学生のころの三阪少年の夢はなんでしたか。

三阪

小学生の頃は何かのスポーツで日本代表になりたいと思っていました。中学生になってからはより具体的にラグビーの日本代表になりたいと思うようになったのですが、年齢が上がるとともに現実を知ることになっていきます。
それでも高校進学はラグビーを軸に考えました。中学生最後の試合で負けた悔しさがあったので、このままでは終われないという思いです。
公立高校で花園に挑戦できるところはどこだろうと考えていたところ、その年の大阪の決勝に勝ち上がった布施工業を見て「ここなら花園を狙える!」と思って決めました。

初瀬

その高校時代はどんなラグビー生活だったのでしょうか。

三阪

中学生のときに悔しい思いをしていたので高校1年生からしっかり身体作りをしました。しっかり準備するところは準備して、2年生になってトップチームやそのリザーブに入れるようになって、どんどんラグビーにのめり込んでいくようになりました。
定時制があったので日々の練習は2時間程度で切り上げるのですが朝錬は毎日行っていました。

―何気ない日常が急変した日―

初瀬

大阪といえば高校ラグビー屈指の激戦区と呼ばれている地域です。周囲は強豪校ばかりです。その中でもスーパースターがいたとお聞きしているのですが。

三阪

僕も高校時代は府の選抜候補には声が掛かったのですが、同期の連中は逸材ばかりで、後に東海大仰星高校で全国優勝するメンバーもその中にいて厳しい現実を知らされました。
中でも際立った存在だったのは、後にジャパンラグビートップリーグの東芝や日本代表でキャプテンを務める廣瀬俊朗です。彼は北野高校という超進学校で高校日本代表になって、その後慶應大学に進み、社会人の東芝で日本代表になったのですが、彼の場合は「花園」を目指したというより、当時からもっと先まで見据えてキャリアを考えていたようでした。

初瀬

僕にも同学年に鈴木圭司や小野卓志、宗田康幸のようなスーパースターがいたのですが、県大会以上の大会に出ていないため直接試合会場で会うことはなかったのですが、三阪さんは廣瀬さん以外にも、すごい選手たちとしのぎを削り合う機会がある地域だったようですね。

三阪

その年の春に後に全国優勝する東海大仰星と春に対戦しているのですが前半を5点差で折り返しました。「後半いけるんじゃないか」と思っていたのですが、相手の湯浅大智というキャプテンが要所要所で締めてくるんですよ。結果僕らは突き放されるんですが、そのキャプテンが今や全国屈指の強豪東海大仰星の監督をやっています。

初瀬

そんな人も同期にいたんですか、まさに激戦区大阪ですね。でも、前半5点差ということはかなり手ごたえがあったんじゃありませんか。

三阪

僕らのエースがその試合に出ていなかったので、彼が出ていればも少し違った展開になっていたんじゃないかと思って、チーム全体でモチベーションが高くなっていきました。
そんな中、事故は起きました。

初瀬

その日のことは覚えていますか。

三阪

何気ない日常が急変した日ですからね。よく覚えています。高校3年生の6月16日。
いつものように朝練習に行って、授業を受けて、午後も練習という日でした。週末に試合が入っていたので実戦形式の練習をしていたのですが、一本前の練習で打撲したところがあって、一度抜けようかなと思ったのですが、週末に試合もあることだしと思って、続けたところその次のプレーで事故が起きました。
密集(ラック)からのこぼれ球にセービングをして、一瞬間が開いたので起き上がって走ろうとしたんです。その起き上がろうとしていた変な態勢のところに敵味方がなだれ込んで首の脱臼骨折をしました。

初瀬

事故後のことも覚えているんですか?

三阪

事故にあった直後は「胸から下が無い」感覚でした。
仰向けにグラウンドに倒れて、周りのみんながせわしく動いているのがわかりました。スパイクを脱がされたり、魔法のヤカンで水をかけられたり。当時は倒れたらまずは魔法のヤカンですからね。(笑)ラグビー界ではそれで治ると思われていました。今では笑い話ですが。応急処置で麻酔を打たれるまで100%意識はありました。
目が覚めたのはそれから2日後。集中治療室のベッドの上でした。

初瀬

まさに人生が一変した瞬間ですよね。激戦区大阪で全国大会を目指して、夢の花園でプレーすることが叶うかも、というときに事故で夢が破れ・・・。高校生にはあまりにも辛い現実です。入院期間はどれくらいだったのですか?

三阪

約8か月間です。急性期はまったく動けず、寝返りも打てなかったので看護師さんに動かしてもらって、水分取るのもご飯を食べるのも自分ではできませんでした。
オムツをはいているのですが女性の看護師さんに「ウンチが出てますから替えますね」と言われたときは、人としての尊厳が崩壊したような気持ちになりました。「オレは人ではなくなったのか」なんて思うようになりました。
自分では何もできないので、「恥ずかしいからやめてください」とも言えません。毎日のことですし、それが一番ショックでした。

初瀬

今までの人生には無かったものを、これからは当たり前にしていかなければならないわけですから、18歳の高校生にはかなりショックですよね。根底から自分が壊れていくような思いをしていたのかもしれませんね。
ところで、入院中の娯楽というか、楽しみはありましたか?

三阪

一番のバイブルになったのはキムタクと常盤貴子さんの「ビューティフルライフ」でした。あのドラマを見て障害者でも恋愛ができることや運転ができることを知ったんです。
車の手動運転補助装置を見せたり、車から車いすへのトランスファーをしっかり見せていましたので、よくできたドラマだったと思います。
社会に出る勇気をもらいましたし、覚悟のひとつになりました。
当時の僕はまさに漫画「リアル」のような世界でした。

初瀬

いま思うとあの時代にあって、めちゃめちゃポジティブな内容だったんですね。確か、ベッドに入るシーンもあったような・・・。
僕はあのドラマを目が悪くなってから見たのですが、かなりリアルに描かれていたので、障害者でもいろいろあるんだなと思ったことを覚えています。

―葛藤―

初瀬

長い入院期間だったわけですが、退院後は高校に戻るんですよね。様々な葛藤があったと思うのですが。

三阪

入院中に何度か学校と話し合いをしたところ、当時の校長先生が「ここでやめたら後々必ず後悔するから退学せずに戻ってこないか」と仰ってくれたのです。「極力君の要望を受け入れる」とのことなので車通学を許可してもらいました。毎日先生が迎えに来てくれるというのですが、それじゃストレスになりますから、退院してすぐに手動運転補助装置付きの車の免許を取りに行って通学しました。
今となっては先生方に感謝しかありません。あのまま退学していたら今の自分には繋がっていないと思うんです。

初瀬

良い先生に出会いましたね。
僕も視力を失ったときに家族や周囲の人たち、大学の関係者にはずいぶん支えられました。特にいつも傍にいてくれた友人には感謝しかありません。でもそれが重荷に感じるようにもなってしまい「俺といるとみんなで楽しめないだろ」なんて言ってしまったことがありました。友人は「俺は何も変わらないから」と言ってくれたのですが、僕の方が変わってしまったのです。

三阪

それは僕の友人たちも同じです。僕が一緒だと迷惑をかけてしまうから、離れていこうとしてもまた連れ出されるんです。そこで「そこまでしてくれなくていいよ」なんて言ってしまったところ、友人は激高して「怪我をしたから特別なんじゃない。同じ年に同じ学校でチームメイトになったから。それだけだ」と返されました。あのときはすごく怒られてしまいました。今でも良い関係のまま続いています。

初瀬

うーん、わかります。でも、その熱さが逆に重荷になることがあるんですよね。
大人になればわかることですが、そのときは一緒にいること自体が充実していたはずなんです。でも、当時は多感な時期ですし、それに気づけませんでした。

―ターニングポイント1~ 車いすラグビーとの出合いー

初瀬

車いすラグビーとはどこで出合うのですか?

三阪

車いすで社会復帰することにネガティブになってリハビリにも意欲が湧かずにいたところ、作業療法士の紹介で車いすラグビーの存在を知りました。その先生がかなり変わった方で、日本に入ってきて間もない車いすラグビーのビデオを持っていたんです。しかも海外の試合のものでした。
当時僕が知っていたのは車いすバスケとマラソンくらいだったので驚きました。タイミングよく大阪で新しいチームができるというのでそれを目標にがんばってみようかと思えるようになったのです。

初瀬

ここでまた良い出会いがあったということですね。ラグビー少年が怪我で絶望し、車いすで社会復帰の勇気をもらう。三阪さんはラグビーを軸に成長し、ラグビーを軸に人生が創られていく感じがします。でも、退院後はすんなり社会復帰ができるわけではありません。かなりご苦労されたのではありませんか。

三阪

復学してもクラスメイトが変わっていたので教室には入らず、校内の車椅子で入れる施設で 勉強しました。基本的には残された単位を取っていくのですが、それ以外に公務員試験の勉強をしたり、キャドを学ぶためにパソコンを使うようになりました。卒業式は同期よりも1年遅れて後輩たちと出ました。みんなが階段を上げてくれたので僕も一緒に出ることができました。

初瀬

こういう先輩がいることで後輩たちにも良い勉強になったのではないでしょうか。
高校卒業後はどんな生活を送っていたのですか。

三阪

1年間はニートをして、その間はゆっくりしていました。ゆる~く週に1回くらい車いすラグビーをやったり、夜走りに行ったりする程度の生活です。だらだら1年間を過ごすうちに、そろそろ何かを始めたいと思うようになって、職業訓練校に通って資格をとったり、パソコンを習ったり、簿記を学んだほうがいいんじゃないかと学校を探していたところでニュージーランドへの「留学」の話があったのです。

初瀬

そのタイミングで留学ですか?僕はトップ選手になってから、留学したのかと思っていたのですが、日本代表候補にも入っていない頃ということですよね。
それは驚きです。当時の日本は今ほど強くはありません。その代表にも、候補にもなっていない人が強豪国に留学するなんて考えられませんよ。まともに練習すらしていない段階でよく行く気になりましたね。

三阪

このままじゃいけない。変わらなきゃいけない。でも、変わりたいと思うくせに障害に甘えてしまう自分がいたんです。それなら誰も助けてくれる人がいない場所に行かなければならない。これが最後の挑戦というくらいの思いがありました。
話が出てから一ヶ月もしないうちに留学を決めているんです。大まかなスケジュールだけ決めて、宿泊先も最初の1週間だけ付き添いの方に帯同してもらい生活の基盤づくりを手伝ってもらって、 その先のことは現地で当たることにしました。そのうえ受け入れてもらうチームも確約が取れてはいませんでした。決まっていたのは4か月後の帰りのチケットだけという状況です。

初瀬

ラグビーの競技力も、語学力も、全てに不安しか感じませんね。留学したのは勢いだけだったということでしょうか(笑)。ご家族もさぞ不安で一杯だったことでしょう。

三阪

こんな留学のやりかたは他の人には絶対に勧められません。(笑)
結果ホームステイ先は車いすメーカー社長さんのお宅になったのですが、偶然一人空きが出たからそこへ入ることができました。
車いすのチームの方も「迎えに行くことはできないけど来てくれるならいいよ」ってことで、日本人がやっている中古車屋さんで手続きしてもらって車を手にいれました。
それに語学学校に通うのですが、これもたまたま入ったレストランに日本人の方がいたので事情を説明すると、その方が通っている大学の中に語学学校があって、バリアフリーだから大丈夫だよと紹介されて、そこへ通うことになったのです。すべて最初の1週間で決めました。可笑しいでしょ。奇跡みたいな出会いばかりでした。

初瀬

充実しているというか、無茶というか、最初の一週間はかなり濃い時間だったようですね。でも、そのやり方は人には勧められないな。
さて、その4か月間でいろいろなことを学んだとは思いますが、変わることはできましたか?

三阪

はじめの頃は行けば変わるだろうという受け身の考え方をしていました。環境さえ変われば勝手に自分が変わっていくと思っていたんです。でも、そんなに甘いものではありませんでした。コミュニケーションもとれず、練習にもついていけず、学校では発言もせずに一ヶ月が過ぎてしまったのです。
ある日、風邪で学校を休んでぼうっとしているときにそれに気づきました。「必ず成長してきます」なんて啖呵を切って日本を出てきたのに、何がいけなかったのだろうと考えました。そこで気づいたことは、自分から変わらなければ何も変わらないということでした。それで心のスイッチが入って、頭を坊主にしたんです(笑)

初瀬

僕は毎日坊主頭なのですが、坊主にして何か変われましたか?

三阪

学校に行くとみんなにざわつかれました。それで、「今日から俺やるから」と身振り手振りでみんなに伝え、そこから積極的にディスカッションに関わり、発言もするようになっていきました。

初瀬

それは練習面でも生かされましたか?

三阪

それまでは何も発言しないので置物みたいなものでした。気づいてからは練習中に「もう1回説明してくれ」と言うようになりましたし、練習を止めて意図を確認することも多くなりました。最終的には「明日、こういうことを学びたいから、こういう練習をしてくれないか」と伝えるようになれたのです。すると周囲もそれに応えてくれるようになりました。そこからは選手の家に招待されたり、試合のビデオを見たり、一緒にラグビーの試合を見に行こうと誘われたこともありました。
自分が変わることによって周囲の環境が変わり、僕の車いすラグビーの知識も深まっていったのです。

初瀬

大きな変化じゃありませんか。よくそこまで変われましたね。
そこから残りの3か月間は早かったのではないですか。

三阪

気づいてからの3か月は早かったです。あのころ何が楽しかったかといえば、それまではできないことばかりに意識が向いていたのですが、今は出来なくても、どうやったら出来るようになるかを考えたり、人とコミュニケーションをとって手伝ってもらうことによって出来るようになったりする。そんな毎日を楽しいと思えるようになりました。
それが僕の障害受容なのでしょうね。

初瀬

よくわかります。障害があるとなんでも自分で出来るようにならなければいけないなんて考えてしまうんですよね。人に頼らず、自分でできるように努力する。それは障害の受容というより障害を克服することになります。でも、障害は勝たなければいけないものではなく、受けいれるものです。
三阪さんが障害を受容するきっかけになったのが、自分から動かなきゃ何も変わらないと気づいた後の自身の成長にあったということが重要な点だと思います。そこで現在の三阪さんの核の部分ができたのでしょうね。

―ターニングポイント2~日本代表とアテネ・パラリンピック―

初瀬

留学によって精神的にも車いすラグビーの知識や技術面においても、大きなものを掴んで帰国されたと思うのですが、その後、日本代表への道程をお聞かせください。

三阪

帰国した年の日本選手権大会でアピールして日本代表のセレクションに呼んでもらえました。当時の日本は海外の情報を十分に収集できていたわけではなかったので、僕が先駆者的な存在のひとりとして新しい戦略とかシステムを持ち込んで導入していく感じでした。それが評価されて2003年のアジア・オセアニアゾーン選手権での日本代表入りに繋がったと思います。

初瀬

2002年にニュージーランドに留学して、2003年には日本代表入り。そして2004年にはアテネ・パラ出場ですよね。三阪さんの人生が劇的に変わっていくところですね。
ところでその競技を支える生活基盤というか、日本での仕事とか学校というのは決まっていたんですか?

三阪

それが何も決めていなかったんです。
大阪にはチームが一つしかなく、そのまま継続すると僕が教えるばかりになってしまい成長することができません。それなら環境を変えてチーム数の多い関東へ行こうと。そうすればトップ選手たちがいて、練習や試合をする機会が増えるはず。そう考えて埼玉県の国立障害者リハビリテーションセンターで職業訓練を受けることにしました。引っ越しに当たっては寮に入らず一人暮らしを始めました。

初瀬

帰国後何も決めていないというのも相変わらずですが、高校時代から三阪さんの生活はラグビーと共にある。そこは一貫しているんですね。

三阪

高校進学のときから進路は常にラグビーを基本において考えてきました。それが僕の生活の軸になっていて、それは今でも変わっていません。
このころから本格的なアスリートとしての歩みが始まっていくのですが、アテネ・パラの日本代表メンバーに選ばれたときはすごく誇らしく思えました。実は事故に遭ってから、怖くて一度もラグビーの試合を見に行ったことがなかったんです。でも、「今の自分なら見に行けるんじゃないか」とお正月の「花園(全国高校ラグビー大会)」へ行ってみたところ、心穏やかに高校生のプレーを見ることができました。これでやっと自分は車いすラグビーの選手としてやっていけると思いましたし、ラグビーの受容もできた瞬間でした。
それを境にパラリンピックでメダル獲得に向けて集中することができるようになっていきました。

初瀬

それが2004年の1月ですから、事故から6年くらいの時が経っていたわけですね。好きなラグビーに向き合うことができず長く辛い時間でしたね。

―ターニングポイント3~社会人デビューと競技―

初瀬

国立障害者リハビリテーションセンターの職業訓練を終えて、ここから本格的に社会人としての生活が始まるわけですが、どのような形で競技と両立を図っていったのですか。

三阪

大阪にいたころ一緒にプレーしていた人が、起業して姫路で障害者雇用と車いすラグビーのチームを作ろうということになって、「来ないか」と誘われたのです。関西に戻るのも悪くないし、なによりも面白そうだと思いました。またしてもラグビーを軸にして動くことになりました。

初瀬

車いすラグビーができる環境があって、仕事があって、恵まれてますね。そこでの仕事内容は?

三阪

インターネットが爆発的に普及してきた頃なので、Webデザインやホームページの作成と運営です。そこであれば車いすユーザーがパソコンを使って仕事ができるので、僕の他に三人の同僚がいました。そこでチームを作ったり、練習に行くのも融通をつけてもらいました。
現在のアスリート雇用の走りのような働き方でした。

初瀬

これが三阪さんの初就職となったわけですが、仕事も競技も続けられる環境を得ているのですから、今までスポーツを軸に決めてきたという割には戦略的に動いているようにも見えますね。

三阪

ここでの選択はキャリアの充実というよりは、競技者としてのキャリアに重きを置きたいと考えていました。すべてはラグビーができるなら、という選び方をしてきただけなんです。とはいえ、両立できる環境を選べたことの喜びは大きかったですよ。ですが、それも2年くらいで離れざるを得なくなりました。

初瀬

理想と現実が乖離してきて、「こんなはずじゃなかった」みたいな感じでしょうか。

三阪

2005~2006年は日本代表のキャプテンを務めていました。それも最年少キャプテンだったのです。アテネ・パラのときは出ることが精いっぱいでしたが、勝てない悔しさを味わったので、北京・パラで勝つにはどうすればいいのかその課題に向き合っていました。
自分の成長はもちろんですが、一緒に戦う選手たちの成長、さらには日本の車いすラグビーをどう強くするか身体と頭をフル回転させていたときでした。
答えを探しにもう一度ニュージーランドに行ったり、日本中いろいろなところに練習に行きました。
そうこうしているうちに、それぞれの意識が変わったというか、別の方向を向きだしたので会社を離れる準備をしながら「HEAT」というチームを大阪に起ち上げました。

初瀬

北京・パラまでの期間をどう過ごすかが大事だというのに大変でしたね。会社を辞めて、その後はどちらへ?

三阪

北京・パラの直前に大手アパレルのワールド(株)の特例子会社に転職しました。すでに何人かの車いすラグビー選手が在籍していて、遠征や大会にも出させてくれるという条件で転職しました。

初瀬

ここでの転職もまた競技に重きを置いて、仕事と両立できる環境があるところに進んだということですね。三阪さんはブレませんね。常に競技を軸に考えた動きをしている。
ここではどんな業務を?

三阪

国立障害者リハビリテーションセンターでワードやエクセル、日商簿記の二級を取っていたので、仕入れ関連の経理業務をやったり、社員の出張精算の管理などをやっていました。しっかり職業訓練をしたことがここでも生かせました。実はワールドでの4年間が一番社会人らしい生活を送ったと言えるかもしれません。
ところが・・・
北京・パラが終わったあとにリーマンショックがやってくるんです。これで会社が大きなダメージを受けて僕の生活も一変しました。
「今後競技を続けるなら有給を使ってください。有給がなければ欠勤扱いになります」
それ以降、競技をやればやるほど自分の首を絞めるような感じになってしまい、最終的にアルバイトの時給くらいにまで落ちてしまったのです。
当時はネットショッピングが発展してきたところで、その業務を僕らの部署が担当することになって、朝から深夜まで商品管理に追われようになりました。

初瀬

リーマンショックですか。この影響は大きかったでしょうね。変化は突然やってくるなんて言いますからね。三阪さんも練習する時間が取れなくなってしまったということですか。

三阪

時間的にはもちろんですが、心と体がもたないんです。その反面、任されていた仕事もあったので楽しかったことは確かです。時間も人手もない中、他部門と調整を図ったり改善点を提案したり、ある意味充実はしていました。

初瀬

28歳くらいでしょうか。そのころというのは仕事面の充実感を楽しいと思えるんですよね。僕にも経験がありますのでよくわかります。それに仕事というのは、できる人のところにやってくるものです。忙しかった分だけ成長させてもらったのではありませんか。

―ターニングポイント4~順調なキャリア形成と競技生活の終焉―

初瀬

三阪さんは競技を軸に人生を組み立ててきたように思いますが、しっかり仕事をこなしてそれなりにキャリアを積んできていることがわかります。
北京・パラが終わって、そのころからですかねアスリート雇用が出始めたのは。

三阪

パラスポーツでメシが食えるなんて羨ましいと思っていたところ、僕にもバークレイズ証券の話がきました。それが2010年のことで2011年に入社しました。東日本大震災の直後です。
僕は体力的にも2012年のロンドン・パラが最後だと思っていたので、その大会に向かってフルフル競技がしたいと思っていたんです。
周囲が日本の大手企業に雇用されていくのを見ながら羨ましいという気持ちもあったのですが、バークレイズ証券で本当に良かったと思います。

初瀬

バークレイズ証券はアスリート雇用だったのですか?

三阪

いいえ、それが違うんです。当時の人事部長が明確なビジョンを持っている方で、「アスリートとしては応援します、ただ会社はダイバーシティとか、CSRとかで障害者の雇用率を上げたいから、『Reach』というグループの活動にも参加してください。今後のキャリアのことも考えて社内の業務にもしっかりコミットして、その3つの業務にバランスよく取り組んでいただきたい」と言われました。

初瀬

整理します。その3つとは「1.スポーツ」「2.障害者の理解に焦点を当てた社内のダイバーシティ・コミッティ活動の『Reach』」「3.仕事」という理解でよろしいですか。

三阪

そうですね、週2日は仕事をして、週3日は練習やスポーツ活動。その合間に『Reach』の活動をするということです、
僕はそのころから障害者の理解や認識を広めることに興味を持ち始めていたので、それを業務のひとつとして取り組めるのはありがたいと思いました。

初瀬

最近のパラアスリートはほとんどがアスリート雇用なので、スポーツをすることがメインになっています。アスリートにとっては、とても楽でありがたいことですがこれ
は雇用する企業側にとってもメリットがあります。日常業務の切り出しやサポートが大きく減ることになりますから。
ですが自身のキャリア形成としっかり向き合っておかないと5年後、10年後に危険なこともあるんじゃないかと思うんです。三阪さんがこの10年で学んだことは大きいで
すよね、でもスポーツだけやっている人たちには、その学びがないんです。
「あれっうちの会社の業務ってなんだっけ?」とか「うちの部署ってどんなことやってるんだっけ?」となってしまい、それが契約社員だったりすると、引退後に契約を
更新できずあたふたしてしまうこともあります。
その点三阪さんは働き方が違います。

三阪

忙しく働いていたことが役になって、仕事で会社にコミットすることの充実感を知っていました。それにスポーツをやめても仕事を継続できるという安心感です。
先ほど初瀬さんが言ったキャリア形成と言う意味では、飽和している雇用形態はいま問題提起しておかないと3年後、5年後くらいに顕在化して来るかなと懸念しています。
いまよくデュアルキャリアとかセカンドキャリアと言われますが、僕が一番大事にしたいのはキャリアトランジションのところだと思っています。
切り替えのときに次にどうするかというイメージを持っていなければ、今何を準備しておくべきかわからないですよね。
パラスポーツはやめどきが無いので、やれる人はいつまでも続けることができます。けっこう高齢になってもできてしまう反面、やめたときに何もできなくなってしまうかもしれません。

初瀬

三阪さんの場合はロンドン・パラが最後になるということが予想されていたということでしょうか?

三阪

身体がボロボロになっていましたからね、これが最後になるだろうとは思っていました。それに日本代表にも最後ぎりぎりのところで選ばれましたから。
でも、もう少し綺麗な終わり方ができると思っていたのですが、ロンドンでは1秒もコートに立てなかったので記録にも残っていないんです。
選手として選ばれて行きましたので葛藤は大きかったですよ。裏方に徹した大会でした。

初瀬

それは反面、選手が育ってきたという証じゃないですか。
三阪さんがキャプテンのときに「パラで勝つにはどうすればいいか。自分の成長はもちろん、一緒に戦う選手たちの成長、さらには日本の車いすラグビーをどう強くするか身体と頭をフル回転させていた」と仰っていました。そうした過程があったからこそ、日本代表が強くなったのではないでしょうか。
それまで競技を中心にキャリアを積んできた三阪さんには想定していない終わり方だったかもしれませんが。

―ターニングポイント5~新たなビジネススタイルを求めて―

初瀬

ロンドン・パラのあと会社とはどんな話しをしましたか?

三阪

これからはチームでの活動は継続しますが、日本代表選手としての活動はしませんと伝えたところ、ラグビーを続けるなら応援するよと返事をいただきました。
そのころセカンドキャリアとして、コーチの道へ進もうかと考えていたところ、日本代表の外国人コーチの契約が切れ、予期せぬかたちで僕がアシスタントコーチに就任することになりました。
ロンドン・パラであんな終わり方をした僕が、今度はナショナルチームのアシスタントコーチとしてリオ・パラの大舞台に戻れたのですから、言葉にできないくらい嬉しかったです。

初瀬

車いすラグビー日本代表初のパラリンピックでの銅メダル獲得ですから、湧きましたね。

三阪

アシスタントコーチ就任が決まってからは、今までの人脈をフル活用してコーチングの勉強をさせてもらいました。大切なことは、「コーチの仕事というのは伝えたいことをいかにそぎ落とすか」だそうです。2014~2015年は徹底してコーチングを学びました。

初瀬

監督やコーチをアスリート雇用の延長でやっている企業も少ないですが、あることはあります。でも、その立場から入っていくというケースはほとんどないでしょうね。
三阪さんの場合はアスリートの活動と『Reach』の活動と社業の3つをしっかりやって、評価もされていたということだと思います。もしも、アスリートとしての活動だけで雇用されていたら、引退後は大きく違っていたかもしれませんね

三阪

確かにコーチや監督ではむずかしいでしょうね。選手時代からの信頼関係が構築できていたうえでのことだと思います。
僕にとって『Reach』の活動はありがたいことに社員同士の横繋がりを作ってくれて、距離感を埋めてくれるものでした。そのおかげで社内の方々が応援してくれる機会も増えていきました。
また、人間関係でいえば、僕のセカンドキャリアに大きな影響を与えてくれたのは、日本パラリンピック委員会(JPC)の河合純一委員長です。
河合さんのおかげで他のパラスポーツとの横繋がりが広がっていきました。もし河合さんがいなければ車いすラグビーに特化した活動をしていたと思います。いまJPCの仕事をしているのは河合さんのおかげですし、広い世界を見せてもらいました。

初瀬

まったく同感です。競技の中だけにいると見えないものがたくさんあります。僕も独立して、会社を興して、視覚障害以外の人たちと広く繋がるようになって見えてきたものがあります。他の障害者のことを知ることって大事ですよね。
三阪さんもいまはJPCアスリート委員会委員長としてアスリート全体を見る立場に変わりました。

三阪

最初は車いすラグビーの理事をやって、裏方に徹して連盟に貢献しようと思っていたんです。現在は退任しましたが理事をやったことや、クラブチームを取りまとめたこと、ナショナルチームに関わる仕事ができたことなど、選手引退後のキャリアをいくつかを経験することができましたが、これだけだと世界観が狭いなと思っていたんです。
そんなときに河合さんに出会って、横繋がりができて見える世界が広がっていきました。そのおかげで、どの競技もいろいろなプロセスを経ることによって、アスリートが活躍する場ができていくこともわかりました。
そんな自分が感じたり考えたりした中から、僕は一般社団法人D-beyondを起ち上げました。
僕には車いすラグビーという軸があって、その繋がりがあって、いつも何かにチャレンジしたいと思っています。それがラグビーと繋がったり、他の競技と繋がったりしながらスポーツから発信できることがあるんじゃないかと思うようになりました。
それは障害の有無に関係なく、何かの可能性に挑戦することの大切さです。
東京オリ・パラであまりにも強く共生社会を打ち出したので、一般の小学校、中学校にはたくさん行ったのですが、特別支援学校にはあまり行く機会がなかったんです。 そこで、いまは特別支援学校に特化したキャラバンを回っています。つい先日も沖縄の特別支援学校に行ってきたばかりです。

初瀬

「D-beyond」は三阪さんの新たなチャレンジですね。これを始める際に、先ほどお名前が出た元ラグビー日本代表キャプテンの廣瀬俊朗さんが力になってくれたとお聞きしています。高校時代のスーパースターが、今ではラグビー繋がりの仲間として力を貸してくれるところがいい関係ですね。今後の広がりにも期待ができそうです。
確認ですが、「D-beyond」はバークレイズ証券の社員でありながら、自分で一般社団法人を作って、その両方をやっているという認識でよろしいですか。バークレイズ証券の仕事とは直接関係はないようですが会社は認めているということですね。

三阪

もちろん法人の活動は認めてくれていますし、応援もしてくれています。
起ち上げたのは2020年4月です。今の「D-beyond」の課題は活動が対価に変わるかということですね。今後のパラアスリートのキャリアとしても参考になると思うんですよ。現役時代は講演会に呼ばれたりして、お金が入ってくることもありますが、引退後はその頻度が下がりますから、競技に貢献したいとか、恩返しをするというスタンスだけでは続きません。そこで人から求められる活動をしながら対価を得るためにはどうする?というのが現在の課題です。

「壁を越える」ということで「D-beyond」としたんですが、自分たちの活動がどうしたら対価に変わるか、収益化までもう少し頑張らないと。それがまさに今の壁です。
先月は沖縄の特別支援学校に行きました。観光地を回って体験会もしました。
自分の使命を持ち合わせて楽しくも意義のある、そのうえ対価が生まれるようになればモチベーションも高まります。義務感ではやりたくありませんから。

初瀬

新しいスタイルですよね。自分で法人を作って社会貢献をしながら対価になるような活動にしようとしているのですから。この「セカンドゲーム~パラアスリートの競技その後」の企画主旨にぴったりの対談になりました。

三阪

社会貢献活動は良いことに決まっているじゃありませんか。でもそれを、いいね、で終わらせてしまったら、切り売りで終わってしまうんです。活動が継続できないんです。続けていくためには対価に変えていかなければなりません。いかにビジネスにしていくかが大切です。これはパラアスリートが引退後にも生き残っていくためのひとつの方法だと思っています。

初瀬

そのために現在取り組んでいることをお聞かせいただけますか。

三阪

昨年はある地方地自体からローカル5Gを使ったリモートコーチの仕事をいただきました。その収入を活かして沖縄の特別支援学校にも行くことができました。
また、具体的には申し上げられませんが、いま積極的に投資をしていることがあります。地方自体が重い腰を上げてくれつつあって、次の展開を楽しみにしているところです。
子供たちが車いすに乗ってガシャーンと当たって、キャッキャッ喜んでいるところを見れば大人たちが喜ばないわけがありません。これをボクらは継続してやっていきたいと訴えているんです。現場の当事者の最高の笑顔を見せれば大人は動きます。それを今後はボクが全部動くのではなく現地のアスリートが請け負えればいいと考えています。

初瀬

なるほど。それはいい取り組みだと思います。ところで2020年4月設立なら新型コロナウイルスが広がりはじめたころですね。1年延期なりましたが東京オリ・パラの年でもありました。

三阪

もともと2020年の東京パラ後にキャリアを思い切り変えたいという思いがありました。そこまではアシスタントコーチをやり切りたかった。ですが、開催が1年延期となってモチベーションの維持が難しくなったのです。 活動は制限され、目まぐるしく状況が変わっていく中、選手やスタッフの間にも挟まれ、精神的にかなり追い詰められていきました。 それで東京パラ開催の1年ほど前にナショナルチームから離れることにしたのです。

初瀬

そういう意味では2020年は大変な年でしたね。その辛かった経験もきっと新たな活動の中で生かされていることでしょう。
最後になりますが、いま一番大切にしていることは何ですか?

三阪

それはやはり会社ですよ。D-beyondの活動にもしっかりメッセージを込めてやっていますので、これもキャリア形成のひとつの在り方として、これから引退するアスリートたちの参考になってくれればと思っています。

初瀬

会社員でありながら自分で一般社団法人を立ち上げるというのは新しい形です。現在は副業OKの企業が増えてきましたので、こういった形で自分のやりたいことをする。これは最先端の働き方じゃないでしょうか。こうした環境を整えていくためにも、しっかり発信することが大事になってきますね。

最後になりますが、今後の夢とかやりたいことをお聞かせください。

三阪

D-beyondには自分がやりたいことが詰まっているのですが、それもただやりたということではありません。アスリートの経験や社会人としての経験を活かし、社会的な貢献とか責任を果たすうえでのやりたいことなのです。
先々それがきちんと仕事になって、対価になって、かつ持っている信念とか可能性への挑戦が多くの人に伝わってくれるのが理想です。
楽しみながら変化が起きて、それが誰かの何かの変化に繋がるんじゃないか、その変化に自分が携わっていたいと思っています。
障害者は先入観や偏見で可能性とか選択肢が少ないと思われがちですが、やれることには価値があって、自分の価値づくりができるんです、そこに僕は気づくことができたので、選択肢が狭いと思っている子供やご家族に対して、可能性への挑戦を発信していくことが大切だと思っています。
オリンピック。パラリンピックの方針と同じですが「できないをできるに変える」です。可能性への気づきと挑戦するきっかけを作るために、ボクが経験してきたことを具現化して希望に変える活動をやっていきたいと思っています。

初瀬

可能性への挑戦という言葉を何度かお聞きしました。三阪さんの今後の活動が楽しみでなりません。本日は貴重なお話をありがとうございました。

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