2022
06.14

パラテコンドー 元日本代表 太田渉子さん

セカンドゲーム ―パラアスリートの競技その後―

「セカンドゲーム ―パラアスリートの競技その後」の第二回は、ソチパラリンピック後にスキー競技で現役引退を表明。その後パラテコンドーで現役復帰し東京2020パラリンピックに出場した太田渉子さんをお迎えして、現役アスリートとしてのキャリアと社会人としてのキャリア形成を重ねるデュアルキャリアについて、また現役引退後のセカンドキャリアについてもお考えを伺ってまいります。

若い世代の現役パラアスリートやこれからパラリンピック出場を目指そうという人たちのヒントにしていただければと願っています。

 

―華麗なる転身 ~ 冬から夏のパラリンピックへー

初瀬

はじめに太田渉子さんのことをご紹介しておきたいと思います。
太田さんはもともとスキー選手として2006年のトリノパラリンピックに日本選手団史上最年少で出場。その後、冬季パラリンピックに3大会連続出場を果たし、2006年トリノ大会ではバイアスロンで銅メダル、2010年バンクーバー大会ではクロスカントリースキーで銀メダルを獲得。2014年ソチ大会では日本選手団の旗手を務めた冬季大会の申し子のようなアスリートです。

パラリンピックに限らず2006-2007ワールドカップではバイアスロンでシーズン総合優勝を果たすなど中学生のころから数々の国際大会で活躍されてきました。そんな太田さんが2014年にスキー選手として現役を引退後、2018年にパラテコンドーで現役復帰し、2021年開催の夏の東京パラリンピックに出場を果たしました。

2019年の世界選手権では世界ランキング1位の英国選手に勝って銅メダルを獲得するなど、短期間に目覚ましい成績を残し、東京大会では女子58kg超級7位入賞という結果でチャレンジを終えました。

今回は冬から夏へと挑戦の舞台を変えた太田さんの歩みと今後の夢やキャリアへの考え方をお聞きしていきたいと思います。

まずは太田さん、東京2020パラリンピックお疲れ様でした。夏のパラリンピックへの挑戦はいかがでしたか。

太田

新型コロナウイルスの感染拡大の影響で無観客での開催となってしまいましたが、大勢のボランティアスタッフや大会関係者の方々に支えられました。私たちアスリートは改めて大勢の人たちに応援されていると感じた大会になったと思います。関係するすべての人たちへ感謝の気持ちでいっぱいです。

初瀬

コロナの影響で開催が一年延期になりましたが。

太田

コロナ禍で医療関係者がどれだけ大変なことになっているかはわかっていました。その中で私たちだけがスポーツをしていいのだろうかと思うこともありましたが、開催のあるなしは自分でコントロールすることができませんので、すでに出場が内定している以上は、代表としての責任を全うしよう。いま自分ができることだけに集中しようと考えていました。

初瀬

無観客で試合をした経験がないのですが、試合会場では選手同士と審判の声、他には一部の関係者の声だけが聞こえているような感じなのでしょうか。

太田

テコンドーの試合会場はひとつしかコートがなく、観客席は真っ暗でコートだけにスポットライトが当たっているような独特の雰囲気の試合でした。自国開催なので本当は大勢の人に見ていただきたかったのですが、とても残念です。

初瀬

長年冬の競技者として自然と闘いながら自分を高めてきた太田さんが、テコンドーという直接相手と戦う競技者に生まれ変わった最初の大舞台ですからね、太田さんをテコンドーの世界に誘った僕としても大勢の人たちに見ていただきたかったと思います。

―ターニングポイント1~ パラスポーツとの出合いー

ここからはご自身の競技の振り返りとキャリアについて伺っていきたいと思います。

太田さんのご出身は山形県の尾花沢市ですね。先天性のものと伺っておりますが具体的にはどのような障害なのでしょうか。

太田

先天性左手全指欠損で生まれつき左手の五本の指がありません。骨でいうと手の平と手首の関節はあるのですが指の骨がありません。生まれながらなのでこれが障害と思ったこともなく、ただ大人になってからカニを食べるときに不便だなぁと思うくらいです(笑)。

初瀬

普通のことって人それぞれですからね、きっと僕らが気づかないことを小さいころから工夫してやってきたのでしょうね。

それでは、スキーとの出合いからお聞かせください。

太田

小学1年生のときに授業でスキーをやったのが出合いです。私はストック1本で滑るのですが、最初はその場から動くこともできず転んでばかりなのでスキーが嫌いでした。小学生の間は6年生までスキーの授業があるので両親はどうにかして滑れるようにしたいと思ったらしく、3年生のときにスポーツ少年団に入れてもらって、そこから徐々に滑れるようになっていきました。

初瀬

そのスポーツ少年団はいろいろな競技をやるのですか。

太田

そこはクロスカントリースキーの少年団です。春から夏までは走り込みの練習で10月くらいから蔵王の方で雪上練習をはじめ、12月から3月までは毎週末に試合がありました。一年を通して練習をしていました。

初瀬

最初は動くこともできなかった子がスポーツ少年団に入って、冬場は毎週末試合に出るようになるまで上手くなったということですね。その試合というのはパラスポーツではなく一般の大会に参加していたということですよね。

太田

はい、一般の大会です。市内のスキー大会に学校の代表で出場したこともありました。できなかったことができるようになって、みんなから応援されるようにもなって、それが嬉しくて良い思い出になっています。

初瀬

その後、地元の中学校に通うわけですが、パラスポーツの世界に入ったきっかけはなんだったのですか。

太田

きっかけは中学1年生のときに全日本障害者スキーの荒井秀樹監督にスカウトされたことです。私は先天性の障害ですし、一般の小中学校に通っていましたから障害者という意識がなかったんです。だから、最初は『障害者』という言葉に抵抗を感じたのですが、ジャパンパラの大会を見たらそんな考えが一変しました。みんな凄く速くて、迫力があって、カッコいいなぁと思ったんです。

初瀬

本物のアスリートに触れた感動ですね。それが太田さんの人生を変える体験になった。

太田

当時私は中学校では陸上部に所属して中・長距離走の練習をしてから、夜はスポーツ少年団に通ってスキーのトレーニングをするという生活でした。陸上のほうは地区大会でそこそこくらいの成績でしたが、すべてがスキーに繋がると考えていました。

―ターニングポイント2 ~ 初のパラリンピックで最年少メダリストにー

初瀬

中学で陸上部だったとは意外ですね。それがスキーの強化になっていたということですが、パラ競技としての大会出場はいつ頃から。

太田

中学1年の冬に長野パラリンピックメモリアル大会の中学生の部に出場して、中学2年で2004年カナダで行われたワールドカップのクロスカントリー、バイアスロンの日本代表に選ばれました。海外の強豪選手が出場する中、クロスカントリーでは4位だったので、もっと体力をつければメダルに手が届くかもしれないと思った大会でした。
(パラリンピックには16歳以上という年齢制限があるが、ワールドカップにはそれがないため日本代表史上最年少の中学2年生での出場となった。)

初瀬

中学2年生で国際大会に出ているわけですから、周囲からも期待されていたでしょうし、ご本人も当時からすでにパラリンピックに出たいという意識があったのではないですか。

太田

いえいえ、その当時はまだパラリンピックは手の届かないものと考えていました。ただ、中学3年になってからですが、バイアスロンという競技であれば、走力を射撃でカバーすることができるので、パラリンピックに出られるかもしれないと思い始めました。

初瀬

中学生になると考え方も現実的になって、自分の将来を見つめるようになってきますよね、その当時、将来のことをどう考えていましたか。大学に行って、こんな職業に就いてみたいとか。

太田

私の場合は競技一択です。高校も県内で一番強い高校に通いました。パラリンピックに出るというのも中学3年のころには意識していましたから、みんなが部活を引退したあとも私だけが残って練習していました。

初瀬

中学生にしてシニアの大会で好成績を残しているんですから、周囲とは異なる意識にもなるでしょうし、アスリートとしての道を歩み始めていたということですね。

太田

中学2年のときに当時の日立システムアンドサービスにスキー部ができて、その下部組織としてジュニアスキークラブもできたので、私はそこに所属して企業からサポートをしてもらっていました。国内で初めてのパラスポーツの実業団チームだったそうです。

初瀬

太田さんが中学生の当時でその体制ができていたというのは驚きますね。今でも選手がアスリート雇用などで個別に企業に所属しているケースはあっても、実業団チームとして活動できているのはごく稀だと思います。そこに中学生から所属されていたのですから恵まれていましたね。
その当時射撃の練習はどこで行っていたのですか。

太田

室内のエアー射撃場で練習するのですが、バイアスロンは屋外の風とか太陽を見なければいけないので、中学3年や高校生の頃は年間100日くらいは海外に行って、雪上でバイアスロンのトレーニングをしていました。

初瀬

年間100日ですか!中学生からそんな生活するって凄いですね。国内でやれることには限界があるということですね。

太田

高校の入学式にも出ていないし、クラスでも同じ中学から進学した子以外の子たちの名前が覚えられませんでした。100日離れると友達になったり、仲良くなれる時間が取れないんです。

初瀬

オリンピックに出るようなアスリートには部活の仲間のことしか知らないとか多いですよね。太田さんもそういう世界にいらしたんですね。
さて、太田さんが最初にパラリンピックに出場したのは2006年のトリノ大会でしたね。日本選手団史上最年少でメダルを獲得されました。

太田

高校1年生のときでした。2005年にアメリカで行われた世界選手権のリレーと、W杯イタリア大会のクロスカントリーで銅メダルを獲得していたのでパラリンピックには行けそうだとは思っていたんです。でもトリノでは狙っていたクロスカントリーでは9位。銅メダルは初日のバイアスロンだったので、これは想像していなかった結果です。

初瀬

ご自身が狙っていた種目じゃないほうでメダルを獲得したってことですか。

太田

クロスカントリーは長い間練習を積んできた競技で、バイアスロンは1年しか練習していません。それが悔しくて。だから4年後には絶対にリベンジしたいという思いを強くしました。

―ターニングポイント3 ~ 4年後を目指して海外留学ー

初瀬

パラリンピック出場という夢を達成したというより、4年後を目指すぞという思いから、高校を休学してフィンランド留学を決断したのでしょうか。16歳の高校生がひとりでフィンランドに行くって不安じゃなかったですか。それも英語圏ではありません。

太田

パラリンピックで好成績を残したいという思いからでした。フィンランドはクロスカントリースキー発祥の地でウインタースポーツが盛んな国です。夏休みに現地に視察に行ったのですが、白夜の中みんなでサマーコテージでバーベキューをしたり、サウナに入ったり、ものすごく楽しい思いをしました。夏のいいところだけを見て「ここはいいなぁ」と思って決めたのです。

初瀬

留学当時はまだ将来的な職業のことなんて考えていなかったのでしょうか。もしあれば、スキーと両立していろいろなことができたかもしれません。

太田

仕事のことはまだなにも。当時はパラリンピックのことしか意識にはなかったので、フィンランドが福祉や教育が進んでいる国だとは知りませんでした。もっとそういった情報をもっていたら、福祉や教育方面の勉強をしようと思ったかもしれません。
現地の高校では国際学科に入って英語で授業を受けました。向こうでは体育の授業のほかにトレーニングという時間があるのですが、トレーニングエリアの中に一年中スキーができるトンネルがあって、射撃場やプール、ジムなどが完備された強化拠点になっている施設があって、留学中はスキーばかりの生活でした。
それに現地ではバス代と教科書代くらいしかかかっていないんです。それに医療費もあとから戻ってきました。今思えばそうした仕組みを学んでくればよかったと思っています。

初瀬

当時キャリアに対する意識があれば今に生かせる体験や勉強ができたかもしれませんね、惜しい。障害の当事者として福祉国家を4年間も体験してきたのですから得難い学びになったはずです。
その経験からいえることは、現在10代の子たちがそういう立場になったり、これからチャレンジしようとしているなら、キャリアのことも考えて留学したほうがいいというメッセージになりますね。ここ大事なところです。

太田

確かにそうですね。留学する国の基礎情報をしっかり持ってほしいと思います。それがあれば、また違ったものが見えてくるでしょうし、様々な情報に接する機会が増えるでしょう。それはきっと将来に繋がってくると思います。

初瀬

次のパラリンピックはバンクーバー大会ですが、海外留学によって練習環境も整っているし、年齢的にも20歳になっているので、高校生の頃の前回大会よりもすべてが充実していたのではありませんか。

太田

この大会ではバイアスロンをメインに出場していたのですが、大会の前半に行われたバイアスロンではメダルが取れず、本来出場する予定のなかったクロスカントリーに出ても調子が戻らず、閉会式のある最終日に行われたスプリントという1kmのレースでメダルを取ることができました。
他の競技は終わっていたので、みんなクロスカントリーの会場に来ていて、観客席がカナダの応援と日本の応援に分かれているみたいな感じでした。女子の最終滑走だったので、みんなが「渉子!」「渉子!」と応援してくれてメダルをとることができました。あれは応援の力です。

初瀬

それまでバイアスロンとクロスカントリーで実績を残してきた人が不思議ですよね。メダルを取るぞって臨んだレースではないものでメダルを取ってしまうなんて。トリノ大会のときもそうでした。とはいえメダルが銅から銀に変わったので、ご自身も結果を出したところでそろそろ日本に帰ろうとなったのでしょうか。

太田

達成感というより、卒業のタイミングで帰国したということです。休学していた日本の高校に復学して、論文を提出して、同級生よりも2年遅れて卒業しました。その後、日立ソリューションズに入社して、社会人として競技を続ける環境になりました。

初瀬

2010年はパラリンピックでメダルを取って、海外留学から帰国して高校を卒業して、東京に引っ越して社会人になって・・・。まさに激動の年でしたね。

―ターニングポイント4 ~ 社会人そして現役引退ー

初瀬

初めての社会人です。どんな仕事を。

太田

人事部の採用担当でした。入社式の準備や当日の受付、社内研修の会場設営などです。一番緊張したのは電話を取ることでした。
基本的には朝9時から15時まででその後はジムに行ったり、ランニングやローラースキーなどのトレーニングです。
春がシーズンオフなので2か月ほどしっかり仕事をして、夏になると南半球で合宿生活が始まります。

初瀬

それは長期間会社を空けるということですよね。そうなると定量的な仕事とかクオリティーを求められるような仕事ができないから、電話の取次ぎとか、会議室を押さえたりとか、その場でできるような内容に限られてしまいますね。

太田

それでも覚えなければならないことが多くて社会人は大変だなぁと思っていました。練習で会社を空けるスケジュールとか、出社しているときの仕事の管理とかフォロー体制ができていて、そういった面でも社会人として学んでいました。

初瀬

社会人になって、今までとは違った人たちと接するようになったわけですが、そこで5年後、10年後に自分がどうなりたいか考えたことはありましたか。

太田

いえいえ、とても5年後、10年後のことなんて考えられませんでした。やっぱり4年後のパラリンピックを目指すという思いしかありません。バンクーバーでは金メダル候補と言われていましたので、今度こそ金メダルを取るんだっていう目標に向かっていました。

初瀬

それでは生活面として、東京で一人暮らしを味わってみてどうでした。

太田

東京には住んではいてもキラキラしたような生活はなく、社会人ではあってもスポーツがメインの生活です。私の中にあったのは2014年のソチのことだけでした。

初瀬

そうですか、ソチまではあまりご自身のキャリアのことは考えて来なかったと考えていいですか。

太田

それでも引退して、一から社会人をやるのは厳しいとは思っていたので、現役の間に少しでも仕事を覚えたいと9時から15時までの勤務にしてもらっていたのです。希望すれば午前中働いて、午後から練習時間に充てることも可能でした。

初瀬

アスリートに専念する人も多いなか、仕事をしながらアスリートとして活動するデュアルキャリアを考えて9時15時だったということですね。
それでソチでの金メダルを目指していくのですが、ソチでは日本選手団の旗手を務めていらっしゃいました。

太田

あれは開会式に出たいので旗手をやらせてもらえませんかと言ったことがきっかけです。というのは、山の競技は選手村が離れた場所にあって、開会式の会場まで片道3時間も掛かったりするんです。試合の前日にそんな時間はないので過去2大会とも開会式には出たことがなく、いつもテレビで観ているだけでした。そこで、どうしたら開会式に出られるのか考えた答えが旗手になることでした。

初瀬

それは出たいですよ。開会式は独特の雰囲気がありますから。

太田

でも、結果としては6位が最高でした。バンクーバーのあとの4年間はシルバーコレクターのような成績ばかりで金メダルが取れていない期間だったのです。

初瀬

自己分析として、それは日本での練習環境とか仕事が関係している?

太田

フィンランドでは1年中スキーができる環境にいて、射撃の練習もできました。でも東京ではそこまでのことはできません。陸上トレーニングで体を作って体重を減らしたのですが、それが裏目に出てしまった面もあるかもしれません。女性は20歳になると脂肪がつきやすくなりますから。ピークを合わせられなかったということでしょう。

初瀬

ソチのあと、現役を引退して競技活動からはいったん退きますね。そこからは一般の社員と同じようにフルタイムの勤務が始まります。そのときも引き続き人事部の採用担当だったのですか。

太田

教育や採用、総務も経験しました。採用担当のころは人に関わる業務が多いのでやりがいもありましたが、総務に移ってからは会議室の管理とか、経理の課金処理とか、それまでの人と関わる業務とちがいましたので、もしもこれを5年とか10年先まで続けるかと考えると気持ちが重くなりました。
これは仕事を通して感じたことですが、私は人と関わってコミュニケーションを取るようなことに向いているのかなぁと思いました。

初瀬

社会にはいろいろな人がいて、人との関わりが苦手でひとりでもくもくと仕事をするのが好きという人もいれば、太田さんのように人と関わるような仕事がしたいと望む人もいる。
人それぞれに合う業務合わない業務があるのですが、太田さんは引退後に自分の方向性が見えてきたということでしょうね。    

―ターニングポイント5 ~ 復活。格闘技がした~い!ー

太田

引退してから障害者スポーツ指導員の資格を取ったり、理学療法士や作業療法士の学校を見学したり、いろいろな研修を受けながら、これからは人を支える仕事に就きたいと考えるようになりました。ですが、学校見学に行ってはみたものの手がないと難しいと感じたり・・・

初瀬

模索の期間ですね。キャリアを真剣に考えだしたということです。その頃でしょうか、イベントで太田さんにお会いしたときに「わたし格闘技がやりたいんです!」と仰ったのは。
僕がテコンドー協会の理事を務めていたので、太田さんなら冬の競技のメダリストとして知名度が高いので思い切ってテコンドーにお誘いしたんです。当時テコンドーには女子選手がいなかったこともあって、ありがたいと思いました。
ただ、冬の競技を真剣に取り組んできた方なので、簡単には「東京を目指します」とは言ってくれませんでした。そんなことが数年続きましたか。

太田

パラリンピックを目指すというのは責任が伴いますから、軽々しくは言えません。自国開催でもありますし。最初は趣味で始めようと思っていました。その後、2018年に国内の大会があるから出てみないかと誘われて、そこからですね変わっていったのは。

初瀬

本格的にテコンドーで東京大会を目指すことになって、それまでの環境を変えようとソフトバンクへの転職を決めた。テコンドー協会にいた僕としては嬉しいニュースでした。
その頃はパラ競技の選手たちがアスリート雇用で、競技だけやればいいという採用が増えていたときなのです。そんな中にあって太田さんは仕事がしたいというデュアルキャリアの志向が強く、アスリートの専業はいやですと仰っていました。社会人として、自分のキャリと向き合っていこうという意思表示をされたわけです。

太田

新型コロナウイルスが流行る前からリモートワークを取り入れている会社なので働きやすく、またCSRにも力を入れているので私のテコンドーも応援してくれました。

初瀬

太田さんは東日本大震災の復興支援の活動にも積極的に取り組んでこられました。会社はその活動にも理解を示してくれていたそうですが、それがテコンドーの応援に繋がっていたかもしれませんね。
ところで今はどんなお仕事を。

太田

体育などの活動を支援する部署で、スマートコーチというスポーツを遠隔指導できるサービスを通じて社会貢献とかCSR活動をサポートする業務をしています。
具体的にはスポーツアシスト教育という出前授業があって、ペッパー君と私が掛け合いになるようにプログラムされていて、ペッパー君が子供たちに質問をすると、それに子供たちが答えてくれる。それにペッパー君がまた答える。そのペッパー君の回答に私が補足するという流れになって、最終的にスポーツの大切さとかスポーツマンシップとは何かという答えに行きつくようにできています。

初瀬

子供たちに考えさせて、最終的にスポーツマンシップを伝えたいということなんですね。これまでの太田さんの活動が活かせて、ソフトバンクらしさにも繋がった仕事じゃないですか。
社会人として2度目のスタートですが、これからは本格的なキャリアを形成していくことになりますが、どんなキャリアを積んで、どんな自分になっていきたいですか。

太田

自分が競技者としていろいろな方に応援してもらいましたし、スポーツを通して社会貢献をさせてもらっているので、これからは自分を育ててくれたパラスポーツに様々な機会を通して恩返しがしたいと思っています。まずはなにかひとつ、自分がこれをやったという形に残ることをしたいですね。
これからは仕事はもちろんですが、今までのように講演やイベントの活動も積極的に取り組んでいきたいと思っています。

―パラアスリートへのメッセージ ~ キャリア形成について―

初瀬

最後にこれからパラスポーツに関わりたいと考えている人や、若いパラアスリートにメッセージをお願いします。

太田

パラスポーツは女性のアスリートが少なく、スタッフも少ない。コーチも少ない。教える立場になりたいと思う人ならコーチという選択肢もあるだろうし、怪我をした人のサポートをする専門スタッフという道もあるでしょう。私は競技をやりながらそういった人たちと関わりが多かったので、こういった話をするだけでも若い世代の選択肢が増えるのかなと思っています。
パラスポーツは学生のころから社会人の方たちと関わる機会が多いので、そういった機会を活かして社会と繋がってほしいと思いますし、学べる機会を最大限生かしてご自身のキャリア形成に繋げていってほしいと願っています。

初瀬

太田さんは今年開催された北京パラリンピックでは、7日間に及ぶテレビ解説という大役を果たされました。これも長年トップ選手として活躍されてきた方のキャリアのひとつだと思います。こうした活動の一つひとつが、これからの選手たちのキャリア形成のヒントになるのではないでしょうか。
今年一年アスリートとしての活動をお休みするそうですが、今後どのようなキャリアを積んでいかれるのか楽しみでなりません。

太田さん、本日は貴重なお話をありがとうございました。

コメントは利用できません